◆sweet chain◆

 あれから一週間。卒業式を無事に終え、遙の心は明との新生活へと、期待に胸を膨らましていた。
 叔父も叔母も大好きだが、それ以上に明を慕っている遙にとってこれ以上嬉しい事はなかった。
 大好きな明との二人暮し…。
 2日後には、長年お世話になったこの家をでることになる。
 長かった…あの日から本当に長かった…。
 これでやっと昔のように戻れるのなら、遙は何をしても構わないとさえ思っていた。
「兄さん……」
 誰にも聞こえることのない呟きは、何か満ちたりた情感が篭っていた。






 ズルズルと、少し重たく感じる足を引きずりながら、遙は大学までの道のりをゆっくりと歩いていた。
 通り過ぎ行く人々が、好奇の目で振り返って行くことにも、今はもう慣れてしまった…。普通の障害のない者達が歩けば、10分と掛からないであろうその道のりは、遙の足には遠い道のりだ。
 目の前に見えてきた大学の門に、浅く溜め息をつき、遙は憂鬱な一日が、早く終る事を願う。
 大学に入学して3ヶ月の間、遙は毎日のようにある事に悩まされていた。
 その一つは、同級生たちの存在…。高校の頃と何一つ変わらない同情に満ちた彼らの眼差し……。自分より弱い者への、陰険な態度…。
 そんな者たちの中で、一人だけ違う男がいた。
 名前は大地 徹也(だいち てつや)。同じ大学構内で、その男だけは他のものとは違っていた。
 毎朝懲りずに遙を構いに来る大地は、決して同情とかそういう物は見せない。遙を普通に扱うのだ。
 初めからそうだった…。掛けられた言葉は最悪だったが、心なしか、遠慮のないその言葉を、嬉しく思った自分がいた。



「よお!お前足悪いんだってな?」
 背後から突如掛けられた言葉に、遙の眉がピクリと上がった。
「なに?それがどうしたの?」
 振り向きざまに、無粋な問いかけをしてきた男を、遙はきつい眼差しで睨む。冷ややかなその表情は、遙の綺麗な顔をより一層際立たせていた。
 男は、そんな遙に怯むことなく、横を通り過ぎ、真正面に立ちふさがった。
「どいてくれる?邪魔なんだけど。」
「まぁ、そう言うなって。俺、大地徹也って言うんだ。お前、俺と付き合わないか?」
 唐突なその物言いに、眉間に皺を寄せ、遙は額に手を当てた。
「あんた、何言ってんの?何で、俺が男のお前と付き合わなきゃなんない訳?」
「訳か…。う〜んそうだな…お前の顔ってのは理由になんないか?」
「はぁ?ナニそれ。悪いけどからかうなら他あたってくれる?あんたの冗談に付き合うほど、俺暇じゃないんだ。」
 そっけなくそう言うと、遙は大地の横を通り過ぎようとした。
「まてよ!別にからかってるわけでも、冗談でもねえって!」
 言いながら大地は遙の腕を掴み、その反動でよろけた遙を逃がすか…とばかりに自分の体にすっぽりと収めると、抵抗する遙の耳元で、低く呟いた。
「ジッとしてねーとココで剥くぞ」
 顔に似あわず気の強い遙は、その言葉を聞くと、自由になる足で大地の股間を力一杯蹴り飛ばした。
 さすがの大地も、相当痛かったのだろう。声にならない声を上げ、その場でピョンピョンと蛙の様に飛び上がる。
 その隙に遙は、重い足を、それでも命一杯動かし、その場を何とか逃げ出した。



「ハァ…ハァ…ハァ…。ッン、何なんだよアイツ…」
 今までも、変に絡んでくる奴らはいだが、大地ほどストレートに自分を見るものはいなかった。
 冗談じゃないと告げたその眼差しが、強く印象に残り、頭の中から消えなかった。
「本気かよ……?」
 息を整えながら、遙は、散り始めた一本の桜の木の下にしゃがみ込む。
 春とはいえ、4月も半ばを過ぎた今日この頃、その日差しはきつく、木の陰からはみ出た素肌を容赦なく照りつけた。
 遙はしばらくそうして木により掛かるようにして座っていたが、不意に目をやった時計の示す時刻に、慌てて動き出した。
 今日は、一限目から必修の講義があり、遅れてはまずいと、遙にとってはこの日二度目になる、全速力で走り出した。





「よっ!遙、今日も無事来たな」
 肩を叩かれ振り返ると、毎度お馴染みになってしまった大地が、真っ黒に日に焼けた顔から白い歯を覗かせながら、ニカニカと笑っていた。
「なんだ、大地か」
「何だとは失礼しちゃうよな〜。遙は、俺に会えて嬉しくないわけ?」
「全然。」
「ひっでー。俺泣くぞ?」
「勝手に泣けば」
「仮にもさ〜、自分の事好きだって言ってるやつに、もう少し位優しくしてやろうって気は無いのかよ」
「ないね」
 唇の端を上げ、にやっと笑いながら言うと、大地から抗議の声が聞こえてくる。
「マジ、酷すぎ。もう少し気を使えよ」
「なんで俺がお前に気を使わなきゃなんない訳?」
 冷たく突き放すような言い方をしてても、遙は内心、こうやって接してくれる大地には凄く感謝していた。
 足を怪我してからというもの、周りの人間たちの、腫れ物を触るかのような扱いには心底うんざりしていたから。
 気軽に話しかけてくる大地は、遙にとって、家族以外では唯一心を開ける、親友と呼べる程の相手だった。
 漫才のような会話をしながら、遙の歩調に合わせて歩いていた大地が、ふと、思い出したように、遙に質問を投げかけた。
「そう言えば、昨日は兄ちゃんに会えたのか?」
 自分の問いかけに、途端に表情を暗くした遙を見て、大地は、「しまった」と舌打ちをした。
 何も答えない遙を見て、容易にその答えが想像できた。
「また、すれ違っっちまったんか…。」
 フゥーと息を洩らすと、大地は遙の頭をポンポンと軽く叩いた。
 そして、慰めながらも、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「なぁ、遙…お前が俺と付き合えないって言うのってさ、お前に好きなヤツがいるからかなーって薄々思ってたけど、まさかそれって兄ちゃんってことは…ないよな?」
 大地にそう聞かれ、瞬間、遙は息を呑んだ。
「な…に言ってるの?」
 そんな分けない!俺は…俺は、兄さんの事は大好きだけど、それは、兄弟だから、ずっと傍にいたから、だから、だから…昔から大…好きだっ…た?
 遙は、身が凍るような気がした。
 大地に言われるまで、気付きもしなかった事が、頭の中に鮮明に蘇る。
 今まで見ないようにしていた自分の本当の気持ち…。
 遙は、そのまま立ち竦んだ。
 気付かないようにしていた?
 何で?…そんなこと……違う!俺はそんなつもりで兄さんを好きなんじゃない!
 呆然と立ち竦んでしまった遙を、横を歩いていた大地は、足を止めて、冷ややかで、少し辛そうな瞳で見つめていた。
 今まで見せた事のないような冷たい表情で……。
「図星…かよ…」
 大地の搾り出すような低い声に、ハッとして我に返った遙は、隣に立つ大地を見上げる。
 その冷たい表情を目にし、ブルッと身を震わせた。
「大…地?」
「………………。」
 何を考えているのか分からない。いつもなら、名前を呼んだだけで、飼い主を見つけた犬のように喜んでいた大地が、今は遙が名前を呼んでも、眉一つ動かさず、そこに立ち止まって遙の顔さえ見ない。
 無言のまま、凄く長く感じる時間を、大地の顔を見つめたままやり過ごした。
 暫くして、先にその沈黙を破った大地がこう告げた。
「悪いけど、今日は先行くわ。」
 ただそれだけ言うと、遙を振り向きもせず、足早に立ち去て行ってしまった。
 遙は、小さくなって行く大地の背中を見つめながら、凍り付いていた足をゆっくりと動かし、歩き出した。大地に指摘された事を考えながら。
 俺が兄さんを好き?…それは間違ってないけど、コレが恋愛感情だなんて…そんな事あるはずがない。
 ずっと一緒に育ってきて、いつだって兄さんの後を追いかけてきた。…けど、そんな邪な気持ちじゃなかったはずだ。
 
 講義が始まっても、頭の中から大地の言葉が消えず、結局その日の講義は、何一つ頭の中に入ってこなかった。
 夕日の中を来た道を戻り、自分のマンションの入口まで来ても、遙の中から、朝の一件の事が離れない。
 エレベーターに乗り込み、ボーっと階数が表示されている場所を見つめ、壁に寄り掛かって何かを吐き出すように、溜め息をついた。
 チンッという音がして、エレベーターの扉が開くと、ノロノロと体を動かして降り、直ぐ傍にある自分たちの部屋へと歩く。
 部屋の前で、ポケットの中を探り、玄関の鍵を取り出すと、鍵を開け、シーンと静まり返った中に入っていった。
 誰もいない部屋…。一人で過ごす事の多くなったリビングは淋しげにカーテンが揺れていた。
 肩に掛けていた荷物をソファーの上に投げ出し、倒れ込むようにして自分もソファーに体を投げ出した。
 クッションに顔を埋め、自分しかいない静寂の中で、自分と向き合っていた。

 …分からない…。それとも気付かない振りをしていただけなのか?
 今まで一度も考えた事なかった。
 兄さんと中々会えなくなって、同じ家にいるのに何だか凄く遠くに感じて、苦しくて……。
 コレが恋愛感情だなんてことは、考えても見なかった。
 大地があんな事言うから、分かってしまった……。
 俺は兄さんが好きなんだ。
 兄弟とか、男だとか、そんなの関係なくて、一人の人間として。
 兄さんは俺に負い目を感じているから一緒にいてくれてる。俺が、好きだなんていったらきっと離れていってしまう。
 それだけは嫌だ!兄さんが俺の前から居なくなる何て絶対に嫌だ!
 気付きたくなかった…。気付かなければ今までと同じで居られたのに……。
 
 遙は、自分の出した答えに、クッションの端をギュっと握り締め、薄暗くなったリビングで、堪えきれない嗚咽を洩らしていた。

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