◆sweet chain◆
 あの時………

 遠のいてく意識の中で………

 最後に見たものは………

 泣きじゃくる兄さんの顔…
 沢山の慌てた大人たちの声。
 遠くから聞こえる救急車のサイレン…

「泣かないで、僕は大丈夫だから」
 伝えたいのに声にならない…もどかしい自分……
 それから……それから………

sweet chain

 ピッピッピッピッピッピッピッピッ――――――――――

 朝を告げる目覚まし時計の盛大な音が響き、薄っすらと目を開けた如月 遙(きさらぎはるか)がそれへと手を伸ばした。
 スイッチを切り、まだぼやけた頭を枕に沈めたまま、遙は乱れた前髪をくしゃっと掻き上げる。
 カチッカチッ…と規則正しい刻を刻む針の音が、ゆっくりと遙の意識をはっきり覚醒させていった…
 のそりと華奢な身体を起こし、ベッドから足を下ろすと、自室をでてリビングへと向かう。
 リビングに入ると、案の定誰もいないことに、遙は悲しげに顔を歪ませた。
「また…か…。」
 これで3日目…。兄、如月 明(きさらぎ とおる)を遙は見ていない。
 夜遅く、遙が寝た後で帰宅し、朝は遙が起きる前に出社してしまう。
 2人は幼い頃、交通事故で両親を亡くし、今年の春、明が大学を卒業したのを機に、世話になった親戚の家を出て兄弟2人で暮らし始めた。
 半年は過ぎようとしているこの頃、今日も一人で明の用意した朝食をとり、大学へ行く前にシャワーを浴びた。
 準備が整い、玄関先で靴を履く。たったこれだけの動作が、遙には人より随分と時間がかかった。
 ちょうど今から十年前、遙は事故にあった。
 その日は天気も良く、大好きな兄、明と2人で家の近くの公園で遊んでいた。
 夢中になって遊んでいるうちに、遙の蹴ったボールが明の後方にある工事現場に転がって行ってしまった。

「お兄ちゃんごめんね。」
 ぺロっと可愛らしい舌を出しながら遙が謝ると、明は優しい笑みを浮かべ弟に答えた。
「まったく、しょうがないなぁー。探してくるからそこで待ってな」
 優しい明の言葉に、遙も満面の笑みを返し、走って行く明の背中を見つめていた。
 十分くらい経っても明は工事現場から出て来ず、一人で心細くなった遙は、『待ってろ』と言った明を探しに、自分もまた工事現場へと入って行った。
 少し薄暗いその中は、休日にも関わらず働く大人たちでガヤガヤと騒がしかった。
 見つかれば、ひどく怒られる!そう思った遙は大きな声で明の名を呼ぶのはやめて、見つからないようこっそりと明を探し始めた。
「お兄ちゃ〜ん。どこ〜?」
 小さな声で呼んでみても、工事現場の騒音に掻き消されてしまい、明の耳には届かない。
 ウロウロと歩いていると、10メートルも離れていない場所に明の姿を見つけ、嬉々とした様子で遙は走り出した。
 やっと見つけたボールを拾うとして明が屈むと、靴の先にボールが当ってしまい、またコロコロと転がり出す。
 明が追い掛けるようにして歩いていくと、ボールは、壁に立て掛けられた木材に当たって止まった。
「お兄ちゃん!!危ない!」
 遙の声に振り返った明は、思いっ切り突き飛ばされ、尻餅を付いた。
 瞬間、ガラガラっと大きな音を立てて、明の目の前で遙の小さな身体が木材の中へと消えていった。
「うわぁ―――――――――――――――――――――!!!!」
 目の前で起こった事故に明は狂ったかのように、まだ声変わりをしていない高い叫び声を上げる。
 その声を聞き付けた大人たちが、何事かと明が呆然と泣き叫んでいる場所まで集まってきた。
「おいっ!どうした?何があった?」
 手が付けられないほど、泣き叫んでは暴れて、倒れた木材に近寄る明を、集まってきた作業員らは必死で止めるが、その手を払いのけ、遙の名前を呼びながら木材を除けようと真っ青な顔でひたすら力を込めた。
「ヒックッ…遙…遙が!!」
 子供の力では到底動かせない木材を、それでも何とかしようと必死の形相で指に力を込め、指先が白くなる。
「おい!子供が下敷きになってるぞ!!作業している奴らを呼べ!!それから救急車だー!!」
 作業員の一人がそう叫ぶと、周りにいた大人たちが一斉に動き出した。
「坊主、退いてろ!!」
 明は木材から引き離され、泣きながら血の滲んだ指をギュッと握り込み祈った。
 大人たちの力によって次々と木材が退かされてゆき、遙の姿が現れると、明は堪らず駆け寄った。
「遙!遙!」
 血の気の失せた遙の顔を見て、明は一瞬嫌な思いが過ぎる。
―――まさか死んでるんじゃ…いやだ!!
 両親の時の事を思い出し、冷たくなった遙の手を握り、明は名前を呼び続けた。
 明の呼び掛けに答えるかのように、遙がゆっくりと微かに目を開けた。
「遙?…遙?今、救急車が来るからな。頑張れ!」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、明がそう言うと、遙は唇を僅かに動かして何か話そうとするが、声にならず、また意識を飛ばした。
―――お兄ちゃん……泣かない…で…
 悪夢のような現実に、明はガクガクと震え、作業員の一人に付き添われながら、遙と共に救急車へと乗り込んだ。
 救急隊員が、宥めるように優しく質問していく。明は血の滲んだ指を手当てしてもらいながら、か細い声で泣きながら答えた。
 病院に着くと程なくして連絡を受けた叔父夫婦が真っ青な顔をして病院にやってきた。
 震える明を叔母は何も言わずきつく抱きしめて、叔父は作業員から事情を聞き、その後はただひたすら、手術中のランプばかりを見つめていた…。

 手術は無事成功し、奇跡的に一命を取り留めた遙だったが、医者からは、右足の半月版を酷く損傷してしまい、リハビリを経ても歩行に多少の支障をきたす程度の後遺症が残ると告げられた。

 ―――あれから10年…遙は、小・中・高と、無事卒業は出来たが、年々強いコンプレックスを抱くようになった。
 小・中と自分とは違うものへの虐め…。高校に入ってからは、同情に満ちた、遙にとっては屈辱の日々。
 同情なんて言葉は大嫌いだった。蔑まされているようで…。
 そんな周りの扱いに、遙の心は次第に頑なになった。明一人を除いては…。

「兄さん…どうして…?俺を避けるの?」
 玄関を出る瞬間、遙は後ろを振り返り、明のいない空間に向かってポツリと呟いた。


―――――半年前、大学の卒業を間近に控えた明は、叔父夫婦に年々心に決めていたことを話した………。
「叔父さん、叔母さん、今まで世話になってきて、恩知らずのような事を言ってすみません。ですが、俺は遙と二人で暮らそうと思います。」
 2人を真っ直ぐに見て話す明に、叔父夫婦たちは顔を見合わせて眉間に皺を寄せた。
「明、私たちには、子供がいない。お前たちのことを本当の子供だと思って今までやってきた。勿論、これからも私たちはそのつもりだ。」
 叔父が話すのを黙って聞いていた叔母が、2人のやり取りを悲しげに見つめている。
「まさか、もう戻ってこないつもりなのか?」
「違います!ただ…少し2人で過ごす時間が欲しいんです。」
 広いリビングに、なんとも言いがたい空気が流れ、それまで黙っていた叔母が口を開いた。
「明…あの時の事をまだ気に病んでいるのね…でもあれは、貴方が悪かった訳ではないでしょ?あの事故はホンのちょっと運が悪かっただけ。遙だって、貴方が気にしている事に心を痛めているわ。」
 叔母の言葉に、明は少しだけ眉を寄せ、静かに視線を手元に落とした。
 今年でもう10年…あの事故に遭うまでは、遙は本当に良く笑う友達の多い子供だった。
 あれ以来少しずつ学校での話をしなくなり、休みの日も家に閉じこもる事が多くなっていった。
 叔父夫婦や、明に対しては以前と変わらない態度だったが、いつの頃か友達も誰一人として遊びに来る事もなくなっていた。
 明は、そんな状況を眼にしてきて、自分もまた、休みの日も、学校が終ってからも家に居ることが多くなっていった。
「叔母さん…それでも遙はあれ以来変わってしまった…。俺なんかを庇ったせいで、あんなに元気だった遙が、家から出なくなった。俺のせいじゃないって言っても、現実は変わらないんですよ…」
 搾り出すようにして話す明に、2人はもう何も言えなかった…。
「遙が帰ってきたら、俺から話します。本当にすみません…。」
 意志の強さを感じさせる明の言葉に、叔父夫婦は苦い思いをかみ締めながら、頷いた。

 部屋に戻ると、明は荷物の整理を始めた。これから住む場所は、以前から探し、後は契約するだけとなっていた。
 この春、明は大学を卒業し、就職も内定している。遙も大学に進学する。
 明の選んだマンションは、遙の通う大学からすぐ傍にあった。遙の足を考慮しての事である。
 見晴らしのいいマンションは、5階建てのまだ新しい建物だ。エレベーターも完備してあり、防犯に関しても申し分ない。
 すべては遙の為だけに、明が選んだ。
 遙の為だけに…………

 遙も卒業を間近に控え、後は式だけを残すのみとなった。学校から帰ってくると、家の中の重い雰囲気に遙はなんだろう?と少し首を捻る。
 いつも通りキッチンにいるであろう叔母に『ただいま』と告げる為、右足を引きずるようにしながらリビングの扉を開けた。
 案の定、リビングから続くキッチンに叔母の姿を見つけると、帰ってきたことに気付いていない叔母に声を掛ける。
「ただいま、叔母さん。」
 心地よいリズムで包丁を使っていた叔母が手を止め、遙をみてふわりと優しく笑った。
「お帰り、遙。今日は早かったのね。」
「うん、今日は卒業式のリハーサルだけだったからね。それより今日のご飯ナニ?」
 手元を覗き込んでくる遙に、叔母は目を細めながら答える。
「今日は、カレイの煮つけと、肉じゃがと、それに竹の子ご飯にかぼちゃのサラダ。」
「ラッキー!俺の好きな物ばかりだ、何?なんかのお祝い?」
「遙と明の卒業前祝いよ!食後のデザートもあるから楽しみに待っていてね。」
 家に居るときは、普通の子供と変わらない姿を見せる…だが、一歩外の世界へと赴くとまるで別人のように固く心を閉ざしてしまう…。
 叔母は、着替えると言ってゆっくりとリビングを出て行った遙の背中を、少し悲しげな瞳で見つめていた。

 遙が自室へと入ろうとすると、隣の部屋の扉が開き、明が顔だけ出して遙を呼んだ。
「お帰り…遙。ちょっと話があるんだけど、着替えてからでいいから、そっちに行って大丈夫か?」
「えっ…?別に構わないけど…何?」
「そっち行ってから話すよ。…着替え終わったら壁叩いて。」
 肩を竦ませながらそう言うと、明はまた部屋へと戻った。
 不思議そうに首を捻りながらも、遙は部屋の中へと入り、遙にしては、猛スピードで着替えをした。
 ドンドンと明との間にある壁をノックすると、直ぐに遙の部屋に明がやって来た。
 パタンと静かにそのドアを閉めると、明はベッドに座っている遙の傍らにそっと腰を下ろす。
「何?話って?」
 何の気なしに遙が問うと、明は静かに笑みを浮かべながら話し出す。
「あのな、俺たちの卒業式が終ったらこの家を出ようと思ってる。勿論、遙も一緒に。……2人で暮らさないか?」
 突然の明の言動に、遙は戸惑った。あの事故以来、遙が違うといくら言っても納得せず、兄は自分を責め続け、遙に対して負い目を感じいつも自分のことを悲しそうな瞳で見る。
 あの日以来…まるで壊れ物を扱うように、遙を周りの心無い者たちから守っていてくれていた。
 そう、自分の犯した罪を償うかのように……。
 だからこそ、明が言い出した事に戸惑い、驚きはしたものの、逆に遙の心は高揚していた。あの日以来、久しぶりに見る明の強い意志を感じる眼差しに……。
「俺は構わないけど、兄さんはホントにそれでいいの?」
「ああ………。」
 少し戸惑いがちに遙が確認すると、明の口から溜め息のような返事が零れた。
 遙はそんな明の姿に少し引っかかる何かを感じてはいたものの、2人でいられる事への喜びを、素直に顔に出していた。
 明は自分に対して満面の笑みで答える遙に、顔にこそ出さないが愛しさを感じていた。
 変わらない笑顔…幼さを残すそれに少し胸を痛めながら……。
 明は、遙の細い、華奢な体をギュッと抱きしめ、白い顔に手を添え、頬をなぞった。これまでの日々を思い出し、本当に長かったと苦笑する。
 遙は、昔はよくしてくれていた明の抱擁に素直に体を預け、久しぶりのその暖かさに安堵した。
 自分に対して負い目を感じていた優しい兄…。幼い頃から大好きで、これからもそれは変わらない。
 これが恋愛感情だなんて事は、この時遙はまだ微塵も気付いてはいなかった。
 ………ただ、明と二人で居られる事に対して『嬉しい』と言う感情だけが遙を取り巻いていた。

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